4つのメッセージ: 政治家の「市民」という言葉が空しい!/ 本物の市民・本物の政策/ 青くさい議論から始めよう!/ 議員になること:それは究極の政治参加だ。

政治家の「市民」という言葉が空しい! 本物の市民の声に耳をかたむけ、それを本物の政策に反映する。 政治家や一部のとりまきが、公職などのポストを取り引きしたり、 予算の配分が政治ゲームの対価に利用されないように、 21世紀の日本を自治体経営を通じて変革するプロジェクトが大切です。 本物の市民・本物の政策 本物の市民の声に耳をかたむけ、それを本物の政策に反映する。 政治家や一部のとりまきが、公職などのポストを取り引きしたり、 予算の配分が政治ゲームの対価に利用されないように、 21世紀の日本を自治体経営を通じて変革するプロジェクトが大切です。 青くさい議論から始めよう! 有力者の意向ではなく、23万市民全ての生活向上をまず第一に考える。 行政の都合や権力者の個人的な貸し借りではなく、常に大義に立って決断する。 法律や制度や規制を無理に押しつけるのではなく、 社会の実態に叶った法律や制度や規制を迅速に整備することに責任をとる。 全ての税金の使い道を全ての市民が納得できるような説明責任を心がける。 全ての人々の幸せと生活の向上を使命とし、 全ての人々の喜びを自らの最上の喜びとして生きる。 まず、そんな青くさい議論から始めよう! 議員になること;それは究極の政治参加だ  地盤(組織)・鞄(資金)・看板(知名度)、いわゆる「3バン」なしに、誰でも自分たちが住む社会に対する問題意識とそれを変えようとする情熱だけで政治家になれるだろうか。  答えは「YES!」である。国際化が進み、教育水準が上がると、政治はプロだけのものではなくなる。しかし、現状を憂い、既存の政治や政治家を批評することで、どれほど社会が変わるだろうか。そこに自らが献身して、政治により直接的に関わろうとするコミットメントが加われば、自分自身が政治家を目指すことになる。そしてそれは「夢」ではない。  平成2年10月28日、28歳で市議会議員に初当選した瀬戸健一郎もそんな「夢」を実現しつづけてきた一人。  このホームページは、そんな地道に、誠実に、地域を考え、国家を考え、世界をそして人間社会全体を考え活動し続ける-。瀬戸健一郎の活動報告である。

アメリカの外交政策とパレスチナ問題の本質~聖書を読む

アメリカの外交政策とパレスチナ問題の本質~聖書を読む。 アメリカの外交政策とパレスチナ問題の本質  『主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。」(創世記16章11節)  これは旧約聖書第一番目の書、創世記に記された言葉である。主とは、6日間でこの世とこの世に生きとし生けるもの全てを創造し、7日目に休んで、その創造物を「善し(Good)」とした創造主なる神。彼女とは現在のユダヤ民族の祖・ヘブライ人の族長であり、今でも世界中で信仰の父とされるアブラハム(当時はアブラムという名)の正妻サライ(のちにサラと改名)の女奴隷でエジプト人のハガルのこと。  神はアブラハムに『あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。』(創世記15章4節)そしてその子孫が星の数ほどになると約束していたのだが、正妻のサライには子がなかったので、『サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもをうめないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。』(創世記16章2節)  ところが、ハガルが身ごもると、次第にハガルはサライを見下げるようになったため、サライはアブラムに訴えて、身のほどをわきまえないハガルをこらしめた。そこで耐えかねたハガルは逃げ出そうとするが、そのハガルの苦しみを聞き入れた神が、彼女に主人(サライ)のもとに戻り、身を低くしているよう命じ、ハガルから生まれる子の安全とその子孫を大いにふやすことをハガルに伝えた。  冒頭に引用した「主の使い」の言葉は、このように正妻サライの怒りから逃げ惑うハガルに与えられた言葉であり、これは同時に、はしための子であるイシュマエルさえも、滅ぼさずに増し増やすという神の計画が語られた重要な箇所なのである。  ハガルが産む子どもイシュマエルは、その後、神の預言どおり増し加えられ、現在のアラブ民族の祖となるわけであるが、彼の人柄について神は、『彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。』(創世記16章12節)と預言している。つまり、ユダヤ人とアラブ人のいさかいの原因はこの時すでに預言されていたのである。  さて、正妻のサライについて『神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライとよんではならない。その名はサラとなるからだ。私は彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」』(創世記17章15-16節)『アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」(創世記17章18-21節)これらの記述が何よりも明確に「契約の民」はイサクの系譜であり、イシュマエルの子孫ではないことを宣言している。  やがてイサクが産まれ成長すると、サラはイシュマエルがイサクと同じように家の相続人となることが相応しくないと考えるようになる。しかし、アブラハムにとっては2人とも自分の息子であるので非常に悩んだ。しかし、『神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出るものが、あなたの子孫と呼ばれるからだ。しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」』(創世記21章12-13節)  アブラハムは神への全幅の信頼と信仰をもっていたので、ハガルとイシュマエルを神に委ねることに躊躇はなかったものと思われる。彼はハガルとイシュマエルをパンと水の皮袋を持たせて荒野に送り出す。荒野をさまよい歩いた末に皮袋の水が尽きて、ハガルが絶望のふちに追い込まれた時、『神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」(創世記21章17-18節)『神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。』(創世記21章20節)旧約聖書の中にイシュマエルについての記述は、これ以降ほとんどなく、新約聖書には全く登場していない。  このようなわけで、聖書に語られる人物は神が「契約の民」とされたイサクから出る子孫、つまりユダヤ民族の系譜が中心なのであるが、これも必ずしも平坦な道のりではないことが預言されている。創世記15章13節には、『自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。』と、出エジプトで有名なモーゼによる解放にいたるエジプトへの隷属の歴史も預言されているが、これが今日のユダヤ民族、当時のヘブライ人の運命であり、聖書の預言、聖書の記述はその後の史実と一致している部分がとても多いのである。  そして前にも述べたとおり、イシュマエルは血統的にはヘブライ人とエジプト人の混血であり、後にハガルはエジプト女性をイシュマエルの妻として迎えているが、このイシュマエルの系譜が今日のアラブ民族の祖であるとされているのだ。さらに、紀元570年ごろ生まれたイスラム教の開祖マホメットは自ら、自分はイシュマエルの子孫であると宣言していることから、ユダヤ教とイスラム教のいずれもがアブラハムを共通の先祖とし、ユダヤ人もアラブ人も同じ神を信仰してきたことになる。つまり、中東問題は異母兄弟であるイサクとイシュマエルそれぞれの子孫の争いなのである。  また、キリスト=イエスは系譜的にはユダヤ人ヨセフの子として、「おとめマリヤより生まれ」(使徒信条)その“誕生”が“西暦の紀元”となっていることは今さら言うまでもないが、このイエスをユダヤ教徒が神との契約の中で神から与えられると待ち続けてきた真の救世主であると受け入れたか否かによって、ユダヤ教徒からクリスチャン、つまりキリスト教徒が分派していったのである。従って、キリスト教はユダヤ教と根を同じくしているのである。クリスチャンにとって救世主が現れるまでの神との契約もキリスト=イエスによる罪からの解放と永遠の命にいたる新しい契約も同様に大切なものであるため、聖書は旧約と新約に区切られてはいるものの、不可分のものとして一冊に全てが収められている。したがって、キリスト教の聖書の旧約部分はユダヤ教の経典とほぼ同一のものであり、イスラム教の経典コーランにも、旧約聖書と類似した趣旨が戯曲風に描かれている。  ※旧約・新約の約は「訳」ではない。神との「契約」という意味である。  旧約聖書の預言どおり、アブラハムから出る子孫、ユダヤ人、アラブ人、キリスト教徒たちが、結果的にそれぞれ世界中で大きな影響力を発揮している現実に成就されているわけであるが、今日のパレスチナ(中東)問題の根底には、このような世界の三大宗教と民族的歴史の相関関係が横たわっており、世界を動かすこれらの背景をわれわれ日本人も知っている必要がある。  神から契約の民として選ばれたイサクの子孫・ユダヤ民族にとって、自分たちが神から与えられたはずのパレスチナに、自分たちの国家を建設することは、近代にいたるまで最も大きな悲願であった。これがシオニズムである。現実にユダヤ民族は20世紀になってもナチス・ドイツの政権下において「自分たちのものでない国で寄留者となり、」迫害も受けた。『しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出てくるでしょう。』(創世記15章14節)という預言どおり、ユダヤ民族は世界各地に散り、経済的にも大きな成功をおさめ、莫大な財産を蓄積するにいたった。特にアメリカ合衆国に多くの実力者たちがホロコーストから逃れて移住したが、彼らの財力が巨大なアメリカ経済を底支えしていることは周知の事実である。イスラエル建国という悲願に向けた準備は着々と進められていたのである。  表向きは建国以来の歴史の中で、アメリカ合衆国はいわゆるWASP(ワスプ=白人で英国系の新教徒)が主導権を握る国家であるとされてきたが、現代アメリカ社会に対するユダヤの影響力はもはや多大である。第二次世界大戦後に実現したイスラエル建国がアメリカ合衆国の強力な支援によって具現化された史実はこのようなメカニズムの中で起こされていたというわけである。この力学を十分に理解することが真の中東和平実現には不可欠だ。  ユダヤ人がローマ軍に聖地を追われておよそ二千年。ナチズムによる迫害を経て、自らの国を持つことの必要性を世界中にアピールしながら世界の超大国アメリカ合衆国の力を背景に建国されたのがイスラエルである。しかし、その空白の二千年間、このパレスチナを守り続けてきたのはイサクの子孫・ユダヤ人ではなくイシュマエルの子孫・アラブ人だった。つまりパレスチナゲリラやイスラム原理主義の過激派がイスラエルのみならずアメリカを敵対視し、アメリカ合衆国をジハード(聖戦)の標的としている原因もここにある。  イスラエル建国を正当化する根拠は、前にも旧約聖書の記述を引用して述べたとおり、神が正統な相続者として「契約の民」としたのはイサクであり、イシュマエルではないという、いわゆる選民思想。この思想は歴史的背景からユダヤ教徒とキリスト教徒に共有された概念である。そしてやがて「多くの財産を携えて出てくる。」というイスラエル建国はいわゆるシオニズム運動の目的であり、原点なのである。「イスラエルの地は、ユダヤ民族誕生の地であった。(中略)ユダヤ人はこの地に国をつくり、書の中の書(聖書のこと)を世界に送り出した。(中略)イスラエルは、イスラエルの預言者によって預言された自由と正義と平和を基礎におき・・・」とイスラエル建国宣言にも記されている。  アメリカ合衆国歴代大統領はすべて、聖書に手を置き、神への宣誓の後、職務についた。そして、この聖書の記述と神への信仰によって、多くの外交政策を正当化してきたのである。ユダヤ資本が見えない大きな影響力を合衆国の政策決定プロセスの中で与え続けていたとしても、表面化しているそれらの歴史的選択が全て神の意図であったかどうかは私には分からない。しかし、もしアメリカ社会のリーダーたちの中に、真のクリスチャンがいるのだとすれば、その根底には「アガペーの愛」がなくてはならない。そして、その「愛」は自分たちの家族や友人たちだけに向けられるものではなく、『あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。』(ルカの福音書6章27節)という、「絶対的な愛」でなくてはならない。その「愛」を中心とした教理と信仰こそが、キリスト教徒に救いをもたらす新しい神との契約(新約)である以上、これを機軸に今、何をするべきかを考えることがクリスチャンである世界のリーダーたちの使命だ。  ※アガペーの愛とは、「あなたの敵を愛せよ。」と説き、自ら十字架にかかったキリストの愛のことです。  ところが、アメリカのみならず、キリスト教の信条と価値観の上に建設されてきた欧米社会全体でキリスト教の影響力が弱まってきている。国家的利害や政治的利益をキリスト教的に正当化してきたのは、ヨーロッパ列強諸国とよばれた国々でも同様だった。そしてやがて、政治権力が宗教的権威を飲み込んでしまった結果、これまで彼らが社会の基礎としてきたはずのキリスト教が急速に影響力を失い、これが人々のキリスト教の精神的基盤を弱め、家庭の崩壊やさまざまな社会問題すら引き起こす原因となってきているのである。すなわちモラル・ハザード(道徳的危機)に瀕しているのは日本だけではないようだ。  さて、キリスト教は紀元313年のミラノ勅令によりローマ帝国内で信教が公認され、392年には正式なローマの国教となった。以来、ゲルマン民族やアングロ・サクソン民族によってヨーロッパ全土に広がり、中世にはいるとキリスト教運命共同体的な今日の欧米社会の原型がかたちづくられていった。もともとパレスチナの片隅のベツレヘムという小さなまちで、ごくごく平凡な大工ヨセフの家に生まれたイエスという人物が、十字架につけられるまでの33年あまりの短い生涯の終盤に、たった3年半という期間で布教した教えがキリスト教の原点である。それが世界中のカレンダーの起源となり、今日のような全世界的宗教へと成長した背景には、このようにローマ法王を頂点とする組織が構築され、この世の権力者たちさえ支配する社会制度を確立し、福音宣教という宗教的使命を世界中に展開し続けてきたという歴史が存在している。そして多くの場合それは、欧米諸国の覇権の拡大、つまり植民地政策の拡大と同一視されてきたのだが、現実に残ったのはキリスト教だけだった。帝国主義も共産主義も消滅し、本来ならば民主主義と資本主義の立役者として世界に君臨するはずのアメリカ合衆国でさえ、世界の中心になりえてはいない。  このようなキリスト教主義からの乖離による欧米社会のゆらぎは、1970年代以降のアメリカで「エバンジェリカル(福音)運動」や「ペンテコスタル(聖霊)運動」といったプロテスタントの新しい潮流を生み出し、今日の「リバイバル(復興)運動」へと発展してきたのである。そしてこのリバイバルというキリスト教の復興運動は欧米社会の底辺からむしろ第三世界へと広がり、キリスト教の展開は今もなお拡大し続けているのである。  私は、これらの動きがアメリカ合衆国大統領をして、イスラム教過激派をテロリストと断じ、その抹殺という大義のもとに、多くのパレスチナ人を虐殺することが正当化される今のアメリカ合衆国の外交政策決定のプロセスが、何らかのかたちで大きな変更を余儀なくされる時期が間もなく来るのではないかと予感せざるをえない。  『あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。』(ルカの福音書第6章27節)そんなことは所詮、人には無理なことなのだろうか?しかし、この言葉には何ものにもない力(パワー)がある。不完全な人間に、この不完全な社会の中で、この教えの真髄がいかに活かされ得るか。世界・人類全てにとって、これは大きなチャレンジだ。  第二次世界大戦中、同盟国ドイツのヒトラーもイタリアのムッソリーニも「神以外の何をも恐れず。」と演説したそうであるが、軍事政権下の日本政府の代表者たちは、「神をも恐れず。」と演説し、欧米人たちを驚愕せたという逸話が残っている。日本では、織田信長以来、世俗の権力者が自分の権威が弱まることを恐れて排除しようと躍起だったキリスト教は近代まで「耶蘇(やそ)」と呼ばれて敬遠され続けてきた。そしてこれまで、日本人は世界がどんな聖書のコンテキストの中で動いてきたかという事実すら理解しようともせず、世界との協調が他の国のどこよりも必要な「持たざる国」であるにも関わらず、外国の人々の信条や価値観、文化や歴史の背景までも理解しようという努力と意欲に欠けていた。  ※聖書のコンテキストとは、聖書に示される様々な示唆や信条。また、それらをもとにした価値判断基準。  今こそ、世界中の人々の心を動かし、精神的価値観の支柱であり続けている「聖書」という書物に触れ、われわれ日本人も独自のスタンスから真の中東和平の実現等、国際社会の難問に正面から取り組み始めるべき時なのではないだろうか。なぜなら、聖書を純粋に読み、解釈することが出来るのも、むしろわれわれ歴史のアウトサイダーの特権であり、日本はユダヤ・キリスト教社会やイスラム世界と歴史的宗教的に同化していないからこそ、先進国で唯一、あらゆる事態に公正・平等な立場を取りえる国だからである。  アメリカの外交政策がどのように動くのかも気にせず、ただ同盟国というだけで全ての外交政策の判断をアメリカ合衆国に任せて追従していく時代は、もう過ぎ去ったのである。いつまでも親と子、兄と弟という関係ではなく、対等、平等、公平な「等身大の日米関係」を構築していく努力が、これからは求められてくる。アメリカ合衆国にとっても、全幅の信頼と頼りがいのある真の外交パートナーが必要なはずだ。これまで日本国民は表面的な生活は欧米化してきた。しかしこれからは自らの民族的、宗教的、歴史的特異性をもっと明確に自覚し、世界の中で、一大国家として、また、その国民として、世界と人類全体にいかに貢献し続けることが出来るか、今こそ、大いに国民的な議論を始めることが必要だ。 瀬戸健一郎 ※本文中の「預言」とは神託を告げることで、神の計画をさします。未来を予測する予言とは異なります。 ※聖書からの引用部分はすべて日本聖書刊行会「新改訳聖書」によるものです。

忘れまじ2001.9.11 世界に何が起きたのか?!…被災地レポート

UNITED WE STAND=団結して立ち上がろう United We Stand 2001.9.11-いつもなら、午後10時すぐにすべてのクラスが終わり、そのまま帰るのですが、その日に限って台風情報が気になり、オフィスのテレビのスイッチを入れました。 目に飛び込んできたのは、アクション映画の1シーン? 10日ほど後に母と共に訪れるつもりだったニューヨークのワールドトレードセンターのツインタワーにユナイテッド航空とアメリカン航空の旅客機が飛び込んだ。 1981年にアメリカの高校を卒業し、その卒業20周年の同窓会に出席する際に、母を初めてアメリカ大陸に一緒に連れて行くつもりでした。 結局、テロ事件が原因で、私一人で渡米。 太平洋をテロに利用されたユナイテッド航空機で渡りました。とても空席の目立つフライト。ニューヨークに着くとまず目に入ったのがこの星条旗と「結束して我々は立つ」というポスターでした。一瞬、ユナイテッド航空はだいじょうぶです。という意味かと思いましたが、これはすぐ誤解だとわかりました。「我々はテロに屈せず、しっかりと立っているぞ!」という意味。街中にあふれる合い言葉です。 SQUARES=広場(タイムズ&ワシントン) タイムズスクエア “Pray for Families & Victims”「家族と被害者のために祈ろう」 “God Bless America”「神よアメリカを祝福したまえ」 “Freedom will be Defended”「自由は守られる」 という幕が星条旗とともに張り出されています。ナスダックの電光掲示板には、 “United We Stand”「団結して立ち上がろう」 という文字が表示され、すべての店舗のウィンドウにも星条旗とこの言葉が掲げられています。  これまでで最高の舞台「レ・ミゼラブル」 ブロードウェイ・ミュージカルも再開されました。私は平凡な人々が自由を求めて闘ったフランス革命を時代背景として人間の愛と無情を描いたミュージカル「レ・ミゼラブル」を観たいと思いました。 日本のレ・ミゼラブルも今年の春に観たばかり。個人的な友人でミュージカル女優の国分美和さんの最後のステージということでもあり、キャストもマダム役の美和さんをはじめ、岩崎宏美、島田歌穂、森久美子など蒼々たる顔ぶれで素晴らしい舞台でした。 しかし、今回のブロードウェイの舞台は正直、スタンニング!気絶するほど素晴らしいものでした。テロ事件によって、初めて外国からかくも大きな大打撃を本土に直接受けたことは筆舌に尽くせないほど大きな衝撃をアメリカ人に与えました。しかも自由の国アメリカの自由の象徴ニューヨークで、起きました。 自由への危機?!自由を守る闘いを覚悟した彼らが「レ・ミゼラブル」を演じたら、こいうことになるんだっ!観衆も舞台もこんなに一体になれるんだっ! アメリカ人をアメリカ人ならしめている精神の根底に触れた、感動の一夜でした。 ちなみに言うまでもありませんが、自由の女神はフランス革命で民衆を先導し、その巨大なブロンズ像はフランスからアメリカ合衆国に贈られたものなのです。 ワシントンスクエアの凱旋門にも反旗が・・・・ マンハッタンにはセントラルパークのような巨大な都市公園の他にもいくつも広場があります。この広場をスクエアとよぶのです。もともとはロンドンで四角い広場をスクエア、丸い広場をサーカスとよんでいるのですが、碁盤の目のように整備されているマンハッタンでは広場も必然的に四角いものが多いのです。 今回の被災者への献花は、ここワシントンスクエアにも捧げられていました。今回のテロ事件で行方不明になっている人々の情報もほとんどなく、いまだ数千人の安否が不明な中、家族や友人を探す人々の張り紙や、既に死亡が確認された人々への手紙、テロに対して徹底抗戦を訴えるメッセージ、戦争ではなく平和をと呼びかけるメッセージなど千差万別です。 フェンスの寄せ書きはフィナンシャルセンターで働く人々がワールドトレードセンターで被災した同業者や友人たちに当てたもの。一言一言が胸を打つものばかり。 PRAYERS=祈り(献花に訪れる人は絶えない) MOURNING=服喪 at ユニオンスクエア ユニオンスクエアはその名のとおり、まるで民族・宗教を超えた連帯(ユニオン)の中で大きな屋外チャペル、屋外メモリアルとなりました。あらゆる国籍、あらゆる民族、あらゆる宗教の、あらゆる言語で哀悼と平和の祈りが捧げられています。  何千人ものニューヨーク経済を支えるビジネスマンたちが死にました。テロリストにハイジャックされたユナイテッド航空とアメリカン航空の乗員・乗客も死にました。ジェット燃料の燃える高熱から逃げる人々を救助・誘導するために建物に飛び込んでいったニューヨーク市警察、ニューヨーク消防隊の警官、消防隊員も多く死にました。  自由・平等・博愛を理想に掲げる自由の女神像と目と鼻の先で、世界中からアメリカンドリームを夢見て海を渡ってきた多くの移民、難民、そして観光客も死にました。テロリストへの怒りより、永遠の別れに対する惜別の情、哀悼の意、悲しみが圧倒的に空気を支配しています。  RAISE THE SPIRIT=魂を高く掲げよう 魂を高く掲げよう。戦争ではなく、平和の魂を、愛の魂を高く掲げよう。 WAR IS […]

コンテクストの時代(Context is decisive)

草加を変える。 人もまちも元気でいきいきと!私たちの草加市を世界に誇れる地方自治の先端都市に!それが瀬戸健一郎の「草加元気計画」です。   瀬戸健一郎を政治リーダーの一人として誕生させた埼玉県草加市は何らかの「変化」を求めていた。「草加を変える。」というスローガンは、28歳で市議会議員となった瀬戸健一郎のあり方をその後、決定的に方向づけてきたが、微妙にその位置づけが変化している。 ▽1期目(1990年~1994年)「草加を変える。」という言葉は彼自身になった。そしてそこから湧き出るエネルギーは市議会議員一期生としては非凡な成果を創り出すことになる。獨協大学のオープンカレッジ化、外国人語学教員助手(AET, ALT)の増員、育児電話相談(育児Q)の創設、草加せんべい歩く広報(栞)、駅前に50万冊規模で情報ネットワーク機能を備えた新市立図書館を建設する構想の提言(平成13年この構想に向けて開館)等、任期4年間全ての議会の一般質問で提言とその実現を求め続け、全ての議会の議案質疑できめ細かなチェックのメスを奮った。しばしば討論にも立ち、執行部を励まし、時に意見を付し、明確な立場を構築するよう求めた。  ▽2期目(1994年~1998年)多くの成果を創ることに強烈なコミットメントを持ち続け、成果だけを追い求めた一期目。辺りを見回し、自分を支えてくれる人々を顧みるのを忘れていた瀬戸健一郎は、成果と裏腹に評判を落としていた。政治家の使命は社会に違いを創ること。しかし同時に、選ばれたリーダーとしてとれ程多くの人々を含み、含まれているかがその人物の器を決めている。そのことに気づいた瀬戸健一郎は自暴自棄の中で2期目の選挙を迎えた。再選後、創り出す成果も自分を誇示するためではなく、市政に違いを創るという立場から、「対話」を第一に行動を再開。その結果、大きな政策課題の調整を任せられるようになり、全国最年少の副議長にも選出された。そして日本一の議員定数削減率の達成、全国2番目の企業会計の導入(公会計改革)、全国3番目の議事録検索システムのインターネット上での公開等を実現した。  ▽3期目(1998年~2002年)親身の友に支えられ、安心して彼らに身を委ねながら3期目の当選を勝ち取った。選挙という特殊な場に瀬戸健一郎を支えるために自分自身を持ち出してくれた人々の熱い友情と愛情と勇気に、あらためて深い感謝の念を覚えている。本当にありがとう!そして「草加を変える。」という仕事がこれまで、どちらかというと政治システムや社会システムに視点が向けられていたのだが、どんなシステムも社会もそれを支え、形作っているのは「人」である。そのことを、もっと明確に、意図的に意識しつつ働くために、これまでのスローガン「草加を変える。」を新しいコンテクストとして再創作し、名刺の裏に刻み込んだ。それが「人もまちも元気で生き生きと!私たちの草加市を世界に誇れる地方自治の先端都市に!」である。このコンテクストからどんな可能性が開けるか、瀬戸健一郎のチャレンジは続く。  コンテクストの時代(The Age of Context)  「草加を変える。」は私が28歳で市議会議員に初当選して以来掲げ続けているスローガンです。地球的視野・地域的行動をモットーに常に大きな視点から足もとを見つめ、「今、ここ」で何に違いを創るべきかを考え、ひとつひとつ実現していく。この政治姿勢は、目先のことに捕らわれることなく、今もしっかりと貫いています。   私の政治リーダとしてのコミットメントは「違いを創り続ける」ことですが、それをどのような「立場」から創作するかが重要です。「改革」とか「変革」といった言葉が中身の無いまま氾濫していますが、その内容(コンテンツ)が生み出される源泉は「コンテクスト」で決まります。全てのものごとの源泉と成り得る「言葉」、その言葉こそが「コンテクスト」なのです。  「草加を変える。」というスローガンは私の政治活動を方向づけてきたという点で、約10年間コンテクストのような働きをしてきました。そして、西暦2000年を迎えるにあたり、新しいミレニアム(1000年紀)に瀬戸健一郎がどのようなコンテクストから生き、そのコンテクストが瀬戸健一郎自身であるという立場から、「草加を変える。」を瀬戸健一郎の「あり方」を決める全く新しいコンテクストとして区別し、上記のとおりあらためて再創作することにしました。  全てのことは「言葉」が決めている。世界は言葉の中に存在する。言葉が世界を創造する。という立場から、全ての人が自らの「言葉のパワー」に目覚め、「人もまちも元気でいきいきと!」した世界を創り出すために、私、瀬戸健一郎はひとりの政治リーダーとして、来るべき新しいミレニアムが「コンテクストの時代」であることを宣言し、自分の言葉を自分自身として尊び、何事にも積極果敢に取り組むことをここに誓います。 コンテクストは決定的(Context is Decisive)  「言葉は成る!」という立場は世界に違いを創るばかりでなく、全ての人の人生にも大きな違いを創っています。自分が誰なのかを決めているのも、意識する、しないに関わらず、ひとりひとりの心の内なる会話(言葉)です。そして、その会話(言葉)は自分の言葉ですから、自由に創りかえることが出来るのです。つまり、自分の人生は自分の思うとおりに、自分の言葉どおりに創り出すことができるのですから、自分自身をどう表現するかが大変重要だということになります。  自分と家族、友人、同僚等との人間関係についても、学校や職場、所属するグループや地域社会との関わり、人生の出来事や自らの幸福感にいたるまで、ありとあらゆることが自分の内なる言葉から開かれた言動によって起こされていることだとしたら、それはコンテクストのパワーです。つまり「コンテクストは決定的」。全てを決め、全てを起こし、全ての違いを既に創っています。  ちなみに、私が私自身のあり方として発明した(無いところから創り出す)コンテクストは次のようなものです:  「私は世界中の全ての人々にとっての愛と勇気と承認の源泉であるという可能性です。」(I am possibility to generate Love, Courage, and Acknowlagement for all people in the World.)  私の生命と存在そのものは、このコンテクストから生み出されてゆきます。そしてそれは、「人々への貢献」や「社会への貢献」という仕事(使命)によって達成され、このことが充満されることが私に至上の幸福感を与えてくれています。 日本にトランスフォーメーションを起こす(Transformation of Japan) -日本人の会話から「ダメ」を取り除くことから始めよう-  地球的視野・地域的行動が私の信条である。ボーダレスの時代とよばれる時代にあっても、やはり国家が実在し、様々な民族、文化、歴史的背景をもった人々が地球上には共存している。それぞれの個性や特性を尊重しあいながら、一つの世界、一つの天体としての地球に違いを創る必要性は、地球環境問題のためだけに存在するものではない。「人もまちも元気でいきいきと!」というコンテクストは世界中の全ての人々とコミュニティーを含んでいる。そしてそこに違いを創る道具こそが「対話」(コミュニケーション)であると思う。  「対話」(コミュニケーション)の重要なポイントは、自分がどのようなコンテクストの中に居るかを探求しつつ、自分が源泉であるという立場から地球上の全ての人々と関わることである。私は日本人であるから、日本人がどのようなコンテクストの中に居るのかを探求することが重要なポイントとなるわけだが、最近、気づいたことがある。それは日本人であるといういくつかのコンテクストの中に、「ダメ」という会話があまりにも広く自然に浸透していることである。  15年ぶりに高校時代に滞在したヒューストンのフェリマン家を訪ねた時、ナンシーがいたずらをしている孫に向かって”Don’t do that!”と叱った。この言葉を厳密に訳せば、「そんなことをするな!」となるわけであるが、そこには「悪い」とか「いけない」という評価や価値観に結びつくような内容は皆無である。ところが、日本人が同じような場面で子どもを叱るときの言葉は、「そんなことをするな!」ではなく、「そんなことしちゃ、ダメでしょう!」となる。この「ダメ」がくせものである。  「ダメ」という言葉はそれではどういう意味が含まれているのか。そこには「良くない」(No Good!)や「悪い」(Bad)が含まれている。コンテクストがもし決定的だとしたら、日本の親は小さな子どもをしつける段階から、自分の子どもの脳裏に「貴方はダメな子!」、「貴方は良くない!」、「貴方は悪い子!」というコンテクストを植え付けている危険性がある。もちろん親にそのような意図が無いことは明確であるし、あくまで親にとっては「やっていることが良くない」という意味にすぎない。しかし、言語発達段階にある3歳前後までの子どもに、「自分自身」と「自分の行動」を区別することは不可能なので、子どもは「自分が良くない」、もしくは「自分は悪い子」、「自分はダメな子」と聞いてしまったとしても、何の不思議もない。  日本人は欧米人に比べて自己承認が薄いという指摘がある。自分の存在そのものを単独で「良し」と出来ないかわりに、周りに気を配り、自分の居場所を確認しようとする。それ故、自己評価も絶対的な評価では安心出来ず、相対的な評価に頼る傾向がある。そして、この性質が現代社会の様々な弊害、特に偏差値偏重教育を生み出し、これがさらに日本の子どもたちを追いつめる。このメカニズムは至極単純で分かりやすく、あたかも日本そのものであるかのように浸透しているので、このことに日本人はあまり気づかない。  このメカニズムの源泉になっているコンテクストが「ダメ」という何ともさりげなく、自然に、簡単に、日本人の中で無意識に使われている言葉なのだということに、私は思い当たった。社会に様々な違いを創るという意味の言葉は、「革命」、「変革」、「改革」等、様々なものがあるが、何れも過去を「ダメ」だと評価し、「より良くする」という意図で実行されるというニュアンスを含んでいる。単純に「質的転換」という意味合いで用いることの出来る、日本語としての新しいコンテクストに、私は「トランスフォーメーション」(Transformation)という言葉を普及させたい。世界中、どこに行っても、どんな人々の中でも、日本人があるがままでプレゼンスし、そのあり方が誰からも「本物」として受け止められるようになれば、世界の中の日本が創り出す「期待」と「信頼」と「責任」に大きなブレークスルーが起こるはずである。そんな日本のトランスフォーメーションの起点となる最初のコミットメントは「日本人の会話からダメを取り除く!」ことだと私は確信している。