アメリカの外交政策とパレスチナ問題の本質~聖書を読む

アメリカの外交政策とパレスチナ問題の本質~聖書を読む。

アメリカの外交政策とパレスチナ問題の本質

 『主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。」(創世記16章11節)

 これは旧約聖書第一番目の書、創世記に記された言葉である。主とは、6日間でこの世とこの世に生きとし生けるもの全てを創造し、7日目に休んで、その創造物を「善し(Good)」とした創造主なる神。彼女とは現在のユダヤ民族の祖・ヘブライ人の族長であり、今でも世界中で信仰の父とされるアブラハム(当時はアブラムという名)の正妻サライ(のちにサラと改名)の女奴隷でエジプト人のハガルのこと。

 神はアブラハムに『あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。』(創世記15章4節)そしてその子孫が星の数ほどになると約束していたのだが、正妻のサライには子がなかったので、『サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもをうめないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。』(創世記16章2節)

 ところが、ハガルが身ごもると、次第にハガルはサライを見下げるようになったため、サライはアブラムに訴えて、身のほどをわきまえないハガルをこらしめた。そこで耐えかねたハガルは逃げ出そうとするが、そのハガルの苦しみを聞き入れた神が、彼女に主人(サライ)のもとに戻り、身を低くしているよう命じ、ハガルから生まれる子の安全とその子孫を大いにふやすことをハガルに伝えた。

 冒頭に引用した「主の使い」の言葉は、このように正妻サライの怒りから逃げ惑うハガルに与えられた言葉であり、これは同時に、はしための子であるイシュマエルさえも、滅ぼさずに増し増やすという神の計画が語られた重要な箇所なのである。

 ハガルが産む子どもイシュマエルは、その後、神の預言どおり増し加えられ、現在のアラブ民族の祖となるわけであるが、彼の人柄について神は、『彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。』(創世記16章12節)と預言している。つまり、ユダヤ人とアラブ人のいさかいの原因はこの時すでに預言されていたのである。

 さて、正妻のサライについて『神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライとよんではならない。その名はサラとなるからだ。私は彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」』(創世記17章15-16節)『アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」(創世記17章18-21節)これらの記述が何よりも明確に「契約の民」はイサクの系譜であり、イシュマエルの子孫ではないことを宣言している。

 やがてイサクが産まれ成長すると、サラはイシュマエルがイサクと同じように家の相続人となることが相応しくないと考えるようになる。しかし、アブラハムにとっては2人とも自分の息子であるので非常に悩んだ。しかし、『神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出るものが、あなたの子孫と呼ばれるからだ。しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」』(創世記21章12-13節)

 アブラハムは神への全幅の信頼と信仰をもっていたので、ハガルとイシュマエルを神に委ねることに躊躇はなかったものと思われる。彼はハガルとイシュマエルをパンと水の皮袋を持たせて荒野に送り出す。荒野をさまよい歩いた末に皮袋の水が尽きて、ハガルが絶望のふちに追い込まれた時、『神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」(創世記21章17-18節)『神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。』(創世記21章20節)旧約聖書の中にイシュマエルについての記述は、これ以降ほとんどなく、新約聖書には全く登場していない。

 このようなわけで、聖書に語られる人物は神が「契約の民」とされたイサクから出る子孫、つまりユダヤ民族の系譜が中心なのであるが、これも必ずしも平坦な道のりではないことが預言されている。創世記15章13節には、『自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。』と、出エジプトで有名なモーゼによる解放にいたるエジプトへの隷属の歴史も預言されているが、これが今日のユダヤ民族、当時のヘブライ人の運命であり、聖書の預言、聖書の記述はその後の史実と一致している部分がとても多いのである。

 そして前にも述べたとおり、イシュマエルは血統的にはヘブライ人とエジプト人の混血であり、後にハガルはエジプト女性をイシュマエルの妻として迎えているが、このイシュマエルの系譜が今日のアラブ民族の祖であるとされているのだ。さらに、紀元570年ごろ生まれたイスラム教の開祖マホメットは自ら、自分はイシュマエルの子孫であると宣言していることから、ユダヤ教とイスラム教のいずれもがアブラハムを共通の先祖とし、ユダヤ人もアラブ人も同じ神を信仰してきたことになる。つまり、中東問題は異母兄弟であるイサクとイシュマエルそれぞれの子孫の争いなのである。

 また、キリスト=イエスは系譜的にはユダヤ人ヨセフの子として、「おとめマリヤより生まれ」(使徒信条)その“誕生”が“西暦の紀元”となっていることは今さら言うまでもないが、このイエスをユダヤ教徒が神との契約の中で神から与えられると待ち続けてきた真の救世主であると受け入れたか否かによって、ユダヤ教徒からクリスチャン、つまりキリスト教徒が分派していったのである。従って、キリスト教はユダヤ教と根を同じくしているのである。クリスチャンにとって救世主が現れるまでの神との契約もキリスト=イエスによる罪からの解放と永遠の命にいたる新しい契約も同様に大切なものであるため、聖書は旧約と新約に区切られてはいるものの、不可分のものとして一冊に全てが収められている。したがって、キリスト教の聖書の旧約部分はユダヤ教の経典とほぼ同一のものであり、イスラム教の経典コーランにも、旧約聖書と類似した趣旨が戯曲風に描かれている。

 ※旧約・新約の約は「訳」ではない。神との「契約」という意味である。

 旧約聖書の預言どおり、アブラハムから出る子孫、ユダヤ人、アラブ人、キリスト教徒たちが、結果的にそれぞれ世界中で大きな影響力を発揮している現実に成就されているわけであるが、今日のパレスチナ(中東)問題の根底には、このような世界の三大宗教と民族的歴史の相関関係が横たわっており、世界を動かすこれらの背景をわれわれ日本人も知っている必要がある。

 神から契約の民として選ばれたイサクの子孫・ユダヤ民族にとって、自分たちが神から与えられたはずのパレスチナに、自分たちの国家を建設することは、近代にいたるまで最も大きな悲願であった。これがシオニズムである。現実にユダヤ民族は20世紀になってもナチス・ドイツの政権下において「自分たちのものでない国で寄留者となり、」迫害も受けた。『しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出てくるでしょう。』(創世記15章14節)という預言どおり、ユダヤ民族は世界各地に散り、経済的にも大きな成功をおさめ、莫大な財産を蓄積するにいたった。特にアメリカ合衆国に多くの実力者たちがホロコーストから逃れて移住したが、彼らの財力が巨大なアメリカ経済を底支えしていることは周知の事実である。イスラエル建国という悲願に向けた準備は着々と進められていたのである。

 表向きは建国以来の歴史の中で、アメリカ合衆国はいわゆるWASP(ワスプ=白人で英国系の新教徒)が主導権を握る国家であるとされてきたが、現代アメリカ社会に対するユダヤの影響力はもはや多大である。第二次世界大戦後に実現したイスラエル建国がアメリカ合衆国の強力な支援によって具現化された史実はこのようなメカニズムの中で起こされていたというわけである。この力学を十分に理解することが真の中東和平実現には不可欠だ。

 ユダヤ人がローマ軍に聖地を追われておよそ二千年。ナチズムによる迫害を経て、自らの国を持つことの必要性を世界中にアピールしながら世界の超大国アメリカ合衆国の力を背景に建国されたのがイスラエルである。しかし、その空白の二千年間、このパレスチナを守り続けてきたのはイサクの子孫・ユダヤ人ではなくイシュマエルの子孫・アラブ人だった。つまりパレスチナゲリラやイスラム原理主義の過激派がイスラエルのみならずアメリカを敵対視し、アメリカ合衆国をジハード(聖戦)の標的としている原因もここにある。

 イスラエル建国を正当化する根拠は、前にも旧約聖書の記述を引用して述べたとおり、神が正統な相続者として「契約の民」としたのはイサクであり、イシュマエルではないという、いわゆる選民思想。この思想は歴史的背景からユダヤ教徒とキリスト教徒に共有された概念である。そしてやがて「多くの財産を携えて出てくる。」というイスラエル建国はいわゆるシオニズム運動の目的であり、原点なのである。「イスラエルの地は、ユダヤ民族誕生の地であった。(中略)ユダヤ人はこの地に国をつくり、書の中の書(聖書のこと)を世界に送り出した。(中略)イスラエルは、イスラエルの預言者によって預言された自由と正義と平和を基礎におき・・・」とイスラエル建国宣言にも記されている。

 アメリカ合衆国歴代大統領はすべて、聖書に手を置き、神への宣誓の後、職務についた。そして、この聖書の記述と神への信仰によって、多くの外交政策を正当化してきたのである。ユダヤ資本が見えない大きな影響力を合衆国の政策決定プロセスの中で与え続けていたとしても、表面化しているそれらの歴史的選択が全て神の意図であったかどうかは私には分からない。しかし、もしアメリカ社会のリーダーたちの中に、真のクリスチャンがいるのだとすれば、その根底には「アガペーの愛」がなくてはならない。そして、その「愛」は自分たちの家族や友人たちだけに向けられるものではなく、『あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。』(ルカの福音書6章27節)という、「絶対的な愛」でなくてはならない。その「愛」を中心とした教理と信仰こそが、キリスト教徒に救いをもたらす新しい神との契約(新約)である以上、これを機軸に今、何をするべきかを考えることがクリスチャンである世界のリーダーたちの使命だ。

 ※アガペーの愛とは、「あなたの敵を愛せよ。」と説き、自ら十字架にかかったキリストの愛のことです。

 ところが、アメリカのみならず、キリスト教の信条と価値観の上に建設されてきた欧米社会全体でキリスト教の影響力が弱まってきている。国家的利害や政治的利益をキリスト教的に正当化してきたのは、ヨーロッパ列強諸国とよばれた国々でも同様だった。そしてやがて、政治権力が宗教的権威を飲み込んでしまった結果、これまで彼らが社会の基礎としてきたはずのキリスト教が急速に影響力を失い、これが人々のキリスト教の精神的基盤を弱め、家庭の崩壊やさまざまな社会問題すら引き起こす原因となってきているのである。すなわちモラル・ハザード(道徳的危機)に瀕しているのは日本だけではないようだ。

 さて、キリスト教は紀元313年のミラノ勅令によりローマ帝国内で信教が公認され、392年には正式なローマの国教となった。以来、ゲルマン民族やアングロ・サクソン民族によってヨーロッパ全土に広がり、中世にはいるとキリスト教運命共同体的な今日の欧米社会の原型がかたちづくられていった。もともとパレスチナの片隅のベツレヘムという小さなまちで、ごくごく平凡な大工ヨセフの家に生まれたイエスという人物が、十字架につけられるまでの33年あまりの短い生涯の終盤に、たった3年半という期間で布教した教えがキリスト教の原点である。それが世界中のカレンダーの起源となり、今日のような全世界的宗教へと成長した背景には、このようにローマ法王を頂点とする組織が構築され、この世の権力者たちさえ支配する社会制度を確立し、福音宣教という宗教的使命を世界中に展開し続けてきたという歴史が存在している。そして多くの場合それは、欧米諸国の覇権の拡大、つまり植民地政策の拡大と同一視されてきたのだが、現実に残ったのはキリスト教だけだった。帝国主義も共産主義も消滅し、本来ならば民主主義と資本主義の立役者として世界に君臨するはずのアメリカ合衆国でさえ、世界の中心になりえてはいない。

 このようなキリスト教主義からの乖離による欧米社会のゆらぎは、1970年代以降のアメリカで「エバンジェリカル(福音)運動」や「ペンテコスタル(聖霊)運動」といったプロテスタントの新しい潮流を生み出し、今日の「リバイバル(復興)運動」へと発展してきたのである。そしてこのリバイバルというキリスト教の復興運動は欧米社会の底辺からむしろ第三世界へと広がり、キリスト教の展開は今もなお拡大し続けているのである。

 私は、これらの動きがアメリカ合衆国大統領をして、イスラム教過激派をテロリストと断じ、その抹殺という大義のもとに、多くのパレスチナ人を虐殺することが正当化される今のアメリカ合衆国の外交政策決定のプロセスが、何らかのかたちで大きな変更を余儀なくされる時期が間もなく来るのではないかと予感せざるをえない。

 『あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。』(ルカの福音書第6章27節)そんなことは所詮、人には無理なことなのだろうか?しかし、この言葉には何ものにもない力(パワー)がある。不完全な人間に、この不完全な社会の中で、この教えの真髄がいかに活かされ得るか。世界・人類全てにとって、これは大きなチャレンジだ。

 第二次世界大戦中、同盟国ドイツのヒトラーもイタリアのムッソリーニも「神以外の何をも恐れず。」と演説したそうであるが、軍事政権下の日本政府の代表者たちは、「神をも恐れず。」と演説し、欧米人たちを驚愕せたという逸話が残っている。日本では、織田信長以来、世俗の権力者が自分の権威が弱まることを恐れて排除しようと躍起だったキリスト教は近代まで「耶蘇(やそ)」と呼ばれて敬遠され続けてきた。そしてこれまで、日本人は世界がどんな聖書のコンテキストの中で動いてきたかという事実すら理解しようともせず、世界との協調が他の国のどこよりも必要な「持たざる国」であるにも関わらず、外国の人々の信条や価値観、文化や歴史の背景までも理解しようという努力と意欲に欠けていた。

 ※聖書のコンテキストとは、聖書に示される様々な示唆や信条。また、それらをもとにした価値判断基準。

 今こそ、世界中の人々の心を動かし、精神的価値観の支柱であり続けている「聖書」という書物に触れ、われわれ日本人も独自のスタンスから真の中東和平の実現等、国際社会の難問に正面から取り組み始めるべき時なのではないだろうか。なぜなら、聖書を純粋に読み、解釈することが出来るのも、むしろわれわれ歴史のアウトサイダーの特権であり、日本はユダヤ・キリスト教社会やイスラム世界と歴史的宗教的に同化していないからこそ、先進国で唯一、あらゆる事態に公正・平等な立場を取りえる国だからである。

 アメリカの外交政策がどのように動くのかも気にせず、ただ同盟国というだけで全ての外交政策の判断をアメリカ合衆国に任せて追従していく時代は、もう過ぎ去ったのである。いつまでも親と子、兄と弟という関係ではなく、対等、平等、公平な「等身大の日米関係」を構築していく努力が、これからは求められてくる。アメリカ合衆国にとっても、全幅の信頼と頼りがいのある真の外交パートナーが必要なはずだ。これまで日本国民は表面的な生活は欧米化してきた。しかしこれからは自らの民族的、宗教的、歴史的特異性をもっと明確に自覚し、世界の中で、一大国家として、また、その国民として、世界と人類全体にいかに貢献し続けることが出来るか、今こそ、大いに国民的な議論を始めることが必要だ。

瀬戸健一郎

※本文中の「預言」とは神託を告げることで、神の計画をさします。未来を予測する予言とは異なります。

※聖書からの引用部分はすべて日本聖書刊行会「新改訳聖書」によるものです。